編集長日記
更新:2026年6月20日
「もののあはれ」を知る心
今では知る人も少なくなったが、文部省唱歌のひとつに『青葉の笛』という曲がある。
これは、明治39年に作られ、当時は小学校の教科書に載っていたようだが、私が小学校時代を過ごした昭和30年代にはすでに教科書から消されていた。
歌詞の内容は、源平合戦がもとになっていて、1番では一の谷の合戦での平敦盛の最後の場面が、そして2番では平忠度(ただのり)の最期が描かれている。
一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き須磨の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛
更くる夜半(よわ)に門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし言の葉あわれ
今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵」の歌 (大和田建樹/詞)
教科書にはなかったこの歌をなぜ私が知っているかというと、小学校のとき、担任の先生が音楽の時間にこの歌を私たちに練習させたからである。
私の郷里は滋賀県の土山という、かつて東海道五十三次の四十九番目の宿場町として栄えたところだが、滋賀はもともと「志賀」と書かれるのが習わしだった。一度はここに都が置かれたから、「志賀の都」とも呼ばれた。
では、それとこの曲がどう結びつくのかというと、平忠度(ただのり)の有名な短歌に、その「志賀」という言葉が登場するのである。
さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
— 千載集六十六
担任の先生は戦前に小学校時代を過ごしていたから、きっと『青葉の笛』も、そして忠度のいわれも学校で習っていて、子供たちに、自分のふるさとに誇りを持ってほしいと願ってこの曲を練習させたのだろう。
さて、その『青葉の笛』の歌詞であるが、敦盛の最後を描いた場面は、『平家物語』の逸話が下敷きになっている。
一の谷の合戦で先陣を切り、しかるべき敵を探し求めていた熊谷直実は、波打ち際を馬で逃げようとしていた平家の公達らしき若武者を呼び止め、「卑怯にも逃げるか」と言い放って一騎討ちを挑む。直実が若武者を馬から落とし、首を取ろうとして顔を見ると、ちょうど我が子と同じくらいの年齢の少年だった。直実は、一瞬、この少年を逃がそうと思ったが、たとえ自分が逃がしても背後に源氏の兵士が迫ってきているから、どのみち生き延びることはできないだろうと考え、「同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」と言って、泣く泣くその首を斬った。
その後、首実検をすると、この公達は清盛の甥、平敦盛とわかったが、それ以後、直実はこの世の無常を悟り、やがて武士を捨てて出家したと言われる。
周知のように、『平家物語』は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる、この世の無常を平氏の盛衰に重ねて描いた作品だが、この無常観は日本人の心の原風景でもある。
江戸時代、日本人の精神、いわゆる‟大和ごころ“を徹底的に考え抜いた本居宣長は、大和ごころとは「もののあはれ」を知る心であると説いた。日本人はこよなく桜を愛するが、これは、桜が日本人の美に対する感性と相性がいいこともあるが、それと相まって、いさぎよく散っていく桜の花に「もののあはれ」を感じるゆえでもある。
『青葉の笛』を小学生に教えることが、そのまま大和ごころを知ることにはならないが、小学生のうちからこういった歌を教えることによって、日本人としての感性は少しずつ育まれていく。それが大人になったとき、『平家物語』という、私たち日本人にとって‟国宝文学“ともいえる作品へといざなうかもしれないのである。
(たま出版編集長 中村利夫)