編集長日記
更新:2026年5月26日
『夜と霧』
いまから半世紀ほど前、予備校に通うため京都の姉のところに下宿していたとき、四条通の高島屋でナチの強制収容所の展示会があった。デパートで強制収容所の展示会とは今の時代ならまず考えられないが、当時は、いってみれば“政治の時代”で、学生運動や労働運動が盛んだったから、デパートでもそういう政治色の強い展示会ができたのだろう。
私は、予備校の帰りに仲のいい友人と二人で見に行ったのだが、そのとき受けた衝撃は50年以上経ったいまも忘れることができない。
それまでも学校の授業や書籍を通してある程度の予備知識は持っていたが、実際に見る展示の数々、たとえばユダヤ人から剥ぎ取った高価なネックレスや指輪、バッグやコート、靴などの生々しい現実を前にして、私の理性は吹っ飛んでしまった。女性の髪を展示している一角もあったが、正視することができなかった。
一緒に言った友人は、会場を出るとき、暑くもないのに額に汗を浮かべていた。私たちは一言も言葉を交わすことなく会場をあとにしたが、言葉を失う、ということがどういうことか、18歳の私はそのとき初めて知ったような気がする。
ナチによる強制収容所で殺された人の数は、一説に600万人とも言われる。命令を下したのは無論ヒトラーだが、彼一人でそれだけの人間を殺せるはずもない。何千人、ひょっとすると何万人もの実行者がいたはずで、彼らがガス室をつくり、毒ガスを天井から噴出させるボタンを押したはずである。
では、そうした実行者たちのすべてが極悪人だったのかと言えば、けっしてそうではないだろう。家に帰ればやさしい父親だったり、道で会えば丁寧にあいさつする紳士だったり、いってみれば‟普通の人々“も多くいたに違いない。
だが、そうした人々にとって、生きるためにはガス室のボタンを押さなくてはならない。でないと、反逆罪で次は自分がガス室に送られる羽目になる。最悪の場合、自分だけでなく、家族にまで累が及びかねない。
それゆえ、初めのうちは良心の呵責に苛まれながらボタンを押すのだが、人間の常として、何度か押しているうちに神経はマヒし、ボタンを押すことが単なるルーティーンに過ぎなくなる。
ゲーテが『ファウスト』で描いた主人公を待つまでもなく、私たちは生き残るためには悪魔にさえ魂を売ってしまう存在でもある。
だが一方で、アウシュビッツの強制収容所を体験し、それをもとに書かれた『夜と霧』には、次のようなことも書かれている。
すなわち、ナチの強制収容所を生き延びた人たちには、体力のある人よりも夕日や野辺に咲く花を見て美しいと感じる人が多かったというのである。
この事実には、私たち人間が生きてゆくために本当に必要なものは何か、ということが示唆されているが、見方を変えれば、この事実は、私たちの内なる魂には、美しいものを美しいと感じる、その感性を生きるエネルギーに変える力が宿っていることを示している。そして、美しいものは崇高性を内包しているから、美しいものと共鳴する私たちの魂も崇高性を内包していることになる。
『夜と霧』がこれほど長く、そして多くの人たちに読まれて来たのは、極限状態に置かれた人間の卑劣さ、残虐さだけでなく、そうした内なる崇高性が同時に描かれているからで、そこに私たちはひと筋の光を見出す。
文学であれ、ノンフィクションであれ、すぐれた作品は理屈を超えたスピリチュアルな一面を持っているが、それらの作品は、私たちが困難な状況にあるとき、私たちがもともと持っているそうした崇高な一面を引き出してくれる存在といえるだろう。
(たま出版編集長 中村利夫)