編集長日記
更新:2026年4月17日
吹く風に人生の声を聴く
私が編集の世界に入ってすでに半世紀近くなるが、かつてはフリーランスとして出版社や広告代理店から編集や広告の仕事を請け負っていた。
ところが40歳になったとき、バブル経済がはじけていきなり仕事が激減してしまった。そこで一念発起して英会話を学び、外資系の企業に就職したのだが、英会話を習得するあいだ、時々面白い英語表現に出くわすとそれをメモして丸ごと暗記していた。
そのひとつが‟Blowing wind bears witness to vicissitudes of life“という表現で、日本語では「吹く風に人生の声を聴く」という訳が添えられてあった。
古今東西を問わず、“吹く風”に人生の儚さを感じるのは共通のようで、それは文学の世界に通じる感性でもある。それゆえ、ボブ・デュランはフォークシンガーなのに‟Blowin’ in the Wind“(風に吹かれて)を作ってノーベル文学賞を貰った。いまや世界的に著名な村上春樹も、デビュー作には『風の歌を聴け』というタイトルをつけている。
さて、デュランの『風に吹かれて』であるが、作家の五木寛之にも同じタイトルのエッセイがあるのを知る人はこんにちではあまりいない。
五木寛之と言えば、『青春の門』をはじめとする長編小説で一世を風靡したから、60歳以上の年配の方なら知らぬ人はいないだろうが、私の場合、根が偏屈にできているから、当時、流行作家の本はほとんど読まず、この人の作品も例外ではなかったが、あるとき、たまたま『風に吹かれて』という本が手に入ったので読んでみた。
読んでみると、これがめっぽう面白い。タイトル通り、風が流れるように筆が流れていて、読み応えのある作品に仕上がっていた。
もしかすると、この人は、小説を書くよりエッセイを書いたほうが後世に残る作品を書けるのではないかと思っていたら、実際にエッセイばかり書くようになり、そちらでも大ベストセラー作家になった。
ところで、田舎育ちの人なら覚えている人も多いだろうが、小学生のころ、真夏の炎天下に学校の運動場で遊んでいると、まれに一陣の風が通り過ぎて涼感をもたらしてくれることがあった。私の郷里では、これを〝極楽の余り風”と呼んでいて、いっときの涼感をもたらしてくれるのだが、母が生前、その風について不思議な体験を語ってくれたことがある。
私の生家は代々の農家で、父も母も今では数少ない専業農家として土とともに生涯を過ごしたが、第二次大戦末期のある夏の日の午後、母が田んぼで雑草取りをしていたときのことである。
何か奇妙な気配がして顔を上げると、一面の青い稲が波のように小さくうねって、一陣の風がこちらに向かって来るのがわかった。
ああ、極楽の余り風だ、と思ってその風を頬に受けたが、いつもの風と何かが違う。風は一瞬で通り過ぎてゆき、通り過ぎていったあとを振り返ると、母に向かって手を振っているようにも見えたそうである。
それから何日か経って、母は自分の父親が戦死した通知を受け取った。
「きっとあれは、お父さんがお別れのあいさつに来たんだわ」
母はそう言ったが、その母も私が40歳のときにこの世を去り、風となって遠くへ行ってしまった。
多くの文学者にとって、吹く風はさまざまなことを考えさせたり感じさせてくれる存在だが、その底を流れるのは共通してこの世の儚さである。文学者はその儚さをさまざまに表現して人々の心をつかむ。
ひるがえって私たちも、それぞれが吹く風に人生の声を聴く。それは、あるときは大砲の飛び交う戦場の中を猛烈に吹き荒れたり、またあるときは輪になって遊ぶ子供たちの背中をやさしく撫でていったりするが、いずれにしても人生はあまりに短く、儚い。そうして、生きることの意味はいつも風の中にある。
(たま出版編集長 中村利夫)