編集長日記

更新:2026年4月17日

意識が先か、脳が先か

 私たちが普段意識しない意識、すなわち潜在意識の世界には、個々人の体験を納めた個人的無意識のほかに、人類共通の体験を納めた集合的無意識がある、と唱えたのは、心理学者のユングである。

 こうした集合的無意識は、夢を見るときなどに表面化する。たとえば私の場合、ヨーロッパの海岸沿いにある街を自分が歩いている夢を見たことがあるが、通りに並んでいる果物店や土産物店、洋服店、すれ違う人々、そして港へと至る風景などは、とても鮮やかで、果物店に並んでいる一つ一つの果物も、レンガ色の建物の2階のベランダに干してある洗濯物も、すべてが“現実”として存在していた。

 これらの風景が、私の拙い記憶力によって再構築されたものとは到底思えない。その風景を“現実に”見ているだれかの潜在意識と私の潜在意識がつながって、彼(もしくは彼女)の見ている風景が私にも見えたとしか思えないのである。

 作家の村上春樹のエッセイなどを読むと、彼も同じような体験をしていたことがわかる。ただし、彼の場合は、その夢は彼が‟目覚めている“ときに現われる。

 どういうことかというと、たとえば『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハン事件を書くにあたって、モンゴルの風景を描く必要に駆られたとき、彼は集合的無意識界にまで自ら降りてゆくのである。

 「読書は深夜にこそせよ。文字が立ち現れる」と言われるが、それと同じように、村上春樹は、万物が寝静まった深夜の静寂の中で、意識の底の底まで降りて行って、ノモンハンの風景を“見る”のである。

 後年になって、彼は実際にノモンハンに行き、その風景を見たところ、小説を書いたときに想像した景色とほぼ変わらなかったので驚いたと書いている。

 将棋の羽生善治九段も、かつて同じようなことを言ったことがある。将棋の場合は、先の手を‟読む“ために自らの意識をその世界に没入させるのだが、そうやって1時間、2時間も深く深く‟読み”の世界に自らを沈潜させていくと、ある一点で、ここから先に行くともう戻って来れないかもしれないという恐怖感を抱く瞬間が訪れるのだそうだ。羽生九段の場合はそこで‟読み”を打ち切るそうだが、村上春樹の場合はその先まで自らを沈潜させてゆく。

 「私が他の人と異なるのは、集合的無意識の世界まで降りて行っても、私はそこから戻って来ることができることだ」という旨のことを、彼はエッセイで述べている。

 こういう話を聞いていると、どうやら、集合的無意識の世界は、自分の脳の中にはない、すなわち脳を超越しており、脳はその集合的無意識にアクセスするための役割を果たしているに過ぎないとも思えてくる。そして、集合的無意識が脳を超越しているのであれば、顕在意識そのものも脳を超越していないとも限らない。

 最新の物理学理論では、この宇宙をつくったのは‟意識“であるという考え方がぼつぼつ出始めている。物質については17種類の素粒子の世界まで突き止めた、しかし、これらの素粒子がどれほど集まったところでそこから意識が生まれるとは考えられない、だとすれば、意識が元々の根源として存在していて、それが逆に素粒子、すなわちこの宇宙をつくったとも考えられるというわけでる。

 もしその理論が正しければ(おそらく正しいのだが)、この世界をつくった「根源意識」がもとにあって、私たちの脳はそこにアクセスするための媒体に過ぎないとも考えられるのである。

 ちなみに、村上作品には『ねじまき鳥クロニクル』をはじめ『1Q84』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』など、「異世界」を訪れる作品が多いが、それはスピリチュアルの世界でもある。つまるところ、村上文学はすぐれたスピリチュアル文学でもあるということなのだろう。

(たま出版編集長 中村利夫)

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