編集長日記
更新:2026年5月1日
父母未生以前の面目
「文学は漱石に始まり漱石に終わる」というのは、私が若いころによく耳にした言葉だが、「始まり」はともかく、古希を過ぎて「終わり」がほのかに見えてきたこの老体には漱石文学がいちばん合っているようで、折に触れて漱石を読み返す。
とりわけ、『それから』と『門』には抗いがたい魅力があって、何年かに一度は手に取るのだが、その『門』のなかに、主人公の宗助が相国寺に参禅し、老師から「父母未生以前本来の面目とは何か」と問われる場面がある。
これは、有名な禅の公案のひとつで、平たく言えば「自分の父母が生まれる以前の本来の自己とはいったい何であるか」という問いになる。禅問答に正しい答えはなく、答える内容に深い浅いがあるだけだから、どう答えるかによってその人の人生観の深さが窺えることになる。
『門』の主人公は幾晩か考えたあげく、一句のみを答えるが、その一句が具体的にどういう言葉であったか、作者は記していない。たんに、老師から「その程度じゃつまらん」というお叱りを受けたことだけを記している。
じつは、漱石自身、実生活で神経衰弱に苦しんでいたとき、やはり鎌倉の円覚寺に参禅し、老師からこの公案を与えられている。現実にどう答えたか、それも記されていない。
漱石という人を語るさいには、その生い立ちを抜きにするわけにはいかない。
彼は、生まれてすぐに里子に出された。すでに子供の数が多くて家計が大変だったのと、母親が年を取ってからの子供だったためそれを恥じたからともいわれる。里子に出された先は、古道具屋っだか、八百屋だったか、はっきりしていないが、その貰われた先で、夜中まで商品の隣りに寝かされているのを見た漱石の姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したそうだ。
その後、1歳になってから再び養子に出されたが、9歳のとき、養父母が離婚したため生家に戻った。ただ、実父と養父の対立によって21歳まで夏目家への復籍が遅れたという。
こうしてみると、彼は二度までも母親に捨てられたことがわかる。『硝子戸の中』という随筆集のなかで、漱石は、彼にしてはめずらしく素直に母を慕う心情を吐露しているが、彼にとって、幼少期に母親の愛情を受けずに育ったという体験は、澱(おり)のように心の底にたまって後々まで彼を苦しませたに違いない。
そして、それに追い打ちをかけたのが、英国への留学だった。明治という、いまだ封建制度の残滓が色濃く残っていた時代に、いきなり価値観の全く異なる外国人の中に放り込まれることだけでも神経が参ってしまうのに、当時のイギリス人やフランス人は、中国人をはじめ、東洋の人々を下等な種族として見下していたから、彼が疎外感と孤独感に苦しんだことは想像に難くない。
その結果として、世俗から一歩離れて醒めた目で世間や人間を眺めるようになったのだろう。
そうした醒めた目が、帰国してから書いた『吾輩は猫である』という作品となって結実するが、やがてその姿勢は「個人主義」となって近代人としての意識を先取りすることへとつながっていく。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という有名な『草枕』の冒頭文は、知的動物である人間が社会的動物としても生きていかなければならない苦悩を語ったものだが、そうした苦悩の行き着く先は「個人主義」でしかなかったろう。
だが、たとえ個人主義で生きていくとしても、生きているそのこと自体の苦悩が消えるわけではない。すなわち、父母未生以前本来の自己とは何か、という、人間存在の根源に関わる苦悩である。
そうした苦悩は、晩年、彼を「則天去私」の境地へと導いていくが、「天に則り私(わたくし)を去る」とは、いってみれば仏教の「諦観」に似た境地でもある。そこに漱石という人の悲哀と孤独を見るのだが、そうした思想の変遷は、作品にもしっかり投影されている。
近代人としての個人主義の芽生えと、それによって世間から受けなければならなかった仕打ち、そしてそれを甘受して諦観に生きる、そうした過程を描いた『それから』と『門』は、それゆえになおさら味わい深い。
(たま出版編集長 中村利夫)