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![]() UP : 2004.09.29 |
つい先日、読者の方より「予言は恐いのでやめて欲しい」という旨のお手紙を頂きました。 確かに、予言にはある種のマイナスの出来事が含まれている事がありますが、それは恐がらせるために出て来たものではなく、地球人類が文明を持つ中で行ってきた事柄への「警告」、あるいは問題意識への「指針」と捉える側面もあると考えています。 ノストラダムスにしても、スウェーデンボルグにしても、エドガー・ケイシーにしても、ある確率で未来を予見した事実によって、信憑性が認められたということは重要です。 最近TVによく出るようになったRV(リモート・ビューイング)も、100パーセント正確とは言えませんが、物事の総合的判断においては、透視という直感的把握は非常に意味のあるものです。 出口王仁三郎は、テレビもない大正時代に、すでに腕時計のような携帯型テレビ電話の出現を予言しています。携帯電話がテレビ付になったばかりの今日、予言の実現はすぐそこまで近づいていると言えるでしょう。 さて、そのいわゆる「予言本」についてですが、タイトルに「年号」をつけると、その年を過ぎるとばったり売れなくなります。それは当然のことで、その中に書かれた衝撃的な事件が起きなかったということは、文字通り「外れた」ことになるからです。 しかし、振り返ってみると、年月に区切って出てきた予言は、ほとんど当たった試しが無いのです。やはり予言の重要性について考えた場合「物事の流れ」の方に注目した方が、何かしら得るものがあるのではないでしょうか。 ケイシーの場合も、ウォール街の「株大暴落」を予言した年には起きずに、数年遅れて起きています。予言の中に出てくる数字は、象徴的な意味があると考えた方が良いのかもしれません。 また昨今の異常気象が、二酸化炭素の増加に伴う温暖化によって起きているとされていますが、ケイシーなどは地殻変動も含め、次のように言っています。 「1998年に、今起こっているゆるやかな変化の形成してきた活動が、大きく現れてくるだろう。これは太陽がさまざまな活動領域を通過することに関連した期間が、魚座と水瓶座の間で一番大きく変化する時期に当たるのだ。この時期の地球にとって、これは急激な活動ではなく、ゆるやかなものである」 (『1998最終シナリオ』:たま出版) そして現在、世界はゆるやかに2004年までやってきましたが、どうも状況はどんどん激しくなっているように感じます。 新訳マタイによる福音書には、この時期 「戦争と戦争のうわさを聞くであろう」 「またあちこちに飢餓が起こり、伝染病と地震があるであろう」 と、出てきます。 現に、終わりの見えない中東での戦闘だけでなく、長野の木曽地方、中央構造線の胎動、カリフォルニアのサンアンドレアス断層での地震の頻発など、ここ数日のニュースでも、それらしき出来事が報道されています。 これらについてケイシーは「祈りによって、災害は回避されうる」と言っていますが、自らの中でもそろそろ警戒感を一層強く持ち、この大きな流れの中で、より天の道にシンクロすべく、覚悟を強めなくてはならないと感じています。 他にも聖書予言には「偽キリストの出現」「荒らす憎むべきものが現れる」などの記述があり、世界の研究界で解析や検証が行われていますが、中には以下のような記述もあるのです。 「その時、人の子のしるしが天に現れるであろう。またその時、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とを持って、人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」 これは、私が最も気に入っているくだりで「善き宇宙人の出現」と解釈しているのですが、その意味から見れば「人の子のしるし」はここ半世紀以上、世界中で「現れ」続けているではありませんか。後は人々がその真意を理解するかどうかということにかかっています。 ただ、マタイによる福音書では、さらに以下のような内容にも続いています。 「しかし、すべてこれらは生みの苦しみの初めである」 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 「そしてこの御国の福音は、すべての民に対して証をするために、全世界に述べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」 では、これら最後にやってくる「御国の福音」が何かといえば、やはり宗教的側面からは「愛」そして「慈悲の心」と考えられそうです。一方、現象面では、それは「フリーエネルギーの一般化」ということになるのでしょうか。CSETIは「戦争の原因となっている石油資源の争奪戦を終わらすことが出来る」と主張しているところからも、エネルギー革命は「福音」の一つに違いありません。 また一方で展開している、何千年にもわたる民族と民族の対立怨念。それらを超えて「愛」が現れないことには、そのエネルギーを建設的に使いこなすことは不可能という見方も出来ます。それが一朝一夕にできないからこそ、いわゆる「終末ドラマ」というものが必然的にやって来るのでしょう。 |