西都原に卑弥呼の墓を見た
UP : 2004.10.19
先日、とつぜん身内の不幸があり、台風21号の影響で1日遅れの宮崎便に乗って、九州へ向かいました。

強力な台風が去った直後ということもあり、機内から見える空は真っ青で、眼下に広がる光景は日本列島の地図を見るような、非常に澄み渡った視界でした。

機は空路を太平洋岸を南下しながら西へと辿って行きましたが、紀伊半島に差し掛かった時、熊野灘が集中豪雨の爪跡にえぐられた様子が現れました。山々の緑が荒れ、河川の濁流が海へ流出したことで、茶色の水の流れが海水の青とくっきりと別れながら、扇型に沿岸を取り囲んでいるのがよく分かりました。
大阪湾岸に回っていくと、今度は多量の材木か樹木らしきものが海に流出しており、その様子は四国沿岸も同じで、濁流と共に海岸に流れていました。

今年日本襲った台風は、その上陸数もさることながら、風の吹き方にしても雨の降り方にしても、これまでのものとは何か違っているように感じられます。これは海外でも同様で、気候の変動が世界的規模で起きていると言わざるを得ないでしょう。

さて、機は無事に空港に到着し、葬送行事も一通り執り行われましたが、ちょっとした時間の空きが出来たので、宮崎の西都原(さいとばる)にある古墳群を訪ねました。驚いたことに、ここでは並木の桜がちらほら咲いていたのですが、それも気候異変の表れなのでしょうか。

幸いなことに、地域最大の施設でもある「県立・西都原考古博物館」が、ちょうどこの5月に完成したばかりでした。展示館は最新設備が整い、じっくり見学することができました。
一方、展示館までの途中にはたくさんの古墳が点在しており、案内に依ればここだけで311基あるとのことでしたが、『日本史のタブーに挑んだ男』(たま出版)の304ページにある「鹿島史学に基づく『新説・古代史年表』」には、「1,000基以上」となっていますから、他にもまだ知られていない多くの古墳があると思われます。
私は同書の内容が気になり、確かめようと、何かに導かれるようにここにやって来たというわけです。

歩きながらひとつ気付いたのは、ここの古墳のほとんどが「円墳」だったということですが、私が「これだな!」と感じた古墳の前に通りかかり、その正面に回ってみると.....
全体は柵に覆われ、古墳自体も木々が生い茂ってよく見えませんでしたが、そこにひとつの看板が立っており「女狭穂塚陵墓参考地・宮内庁」と書かれていました。

そして手前にも大きなプレートがあり、古墳の全体像が立体的に作られていました。そこには2つの前方後円墳が描かれているのですが、どこか配置がおかしいのです。ひとつの古墳が、もう一つの上に「乗っかって」いるように見えます。



実は、この古墳については、下記のように述べられているのです。

『日本史のタブーに挑んだ男』年表・西暦239年
「魏、卑弥呼を親魏倭王とする。耶馬壱国(耶馬台国)の都は日向・西都原にあった。(注)『魏志』倭人伝によって知られる三世紀築造の卑弥呼の円墳も西都原古墳群の中に存在するが、現在は五世紀築造の「前方後円墳」のように改造されて、宮内庁の役人が管理している。

同書179ページ
「卑弥呼古墳であることが明らかな巨大古墳の日向西都原古墳を、時代をずり下げ、ごまかし、そうではないと強弁している。」

プレートの説明文にあるように、この古墳は明治28年に宮内庁が押さえたわけですが、その後どうにかしたのでしょうか。私が見渡した限りでは、これ以外に前方後円墳は無く、他のすべてが円墳でした。

その後、右手の男狭穂塚の隅の方に、ひとつの「石碑」を見つけました。
近付いて見ると「神武東征二千六百年記念碑」とあります。これが建てられたのは昭和になってから、地元の町によって建てられたものでした。
何でこんなものがここにあるのでしょうか?



プレートには「この古墳は「ニニギノミコト」の御陵である」と記されてあるのですが、地元の人によって「これが神武天皇の墓だ」ということが主張されているように思えてなりません。やはりこの2つの並んだ古墳は『日本史のタブー・・・』で述べられているように、満州から朝鮮半島に至って君臨していた、王・神武が九州に入り、この地方の女王・卑弥呼と結婚した、ということの証しではないでしょうか。

また展示物の中でも、古墳に埋葬されていた女性のミイラに鎧や馬具などが添えられているものがあり、女性も戦闘に加わっていた事が分かりました。ここでも、卑弥呼のような女王の存在を感じました。

そして今回、新築の巨大な博物館でのもう一つの発見は、これら古墳時代以前の地層から、多くの「鉄器」が発掘されているということでした。

鉄器は稲作文化の象徴と言われますが、それは大量に稲を刈って脱穀する際、硬い鉄が必需品となるからです。現在の日本史では弥生時代とされていますが、最新の発掘では、これまでの説より500年も遡る、紀元前十世紀に日本に入って来ていたことが明らかになっています。
そして『日本史のタブー・・・』によれば、当時のフェニキア海洋民族が、九州の国東半島に製鉄基地を作ったと述べられているのです。

展示されていた刀剣類には、錆びたものもありましたが、江戸時代の刀に引けを取らないような輝きを持つものもあり、当時の文化が通説よりも進んでいたことが分かります。

館内の時代解説には「大陸からの騎馬民族の侵入説には、多くの反対意見がありますが、その可能性は否定出来ません」というような一節も見られ、博物館スタッフの強い意気込みが感じられました。
それもそのはず、この博物館の完成式典において、地元の皆さんから「『日本史のタブーに挑んだ男』をとりあげたい」というご要望を頂いたのです。

国家が決めた不明瞭な歴史観に対し、地元で発掘物と直接対峙している方々の声が、これからどのように反映されて行くのか、大いに期待を持って見守っていきたいと思います。

そして間もなく、当社より『日本史のタブーに挑んだ男』の続編ともなる2作品がリリースされようとしています。
仮題は、『封印された古代日本のユダヤ』『教科書には絶対書かれない日本古代史の真相』となっています。
歴史に潜む真実の姿に想いを馳せつつ、お読み頂ければ幸いです。

韮 澤 潤 一 郎
にらさわじゅんいちろう

韮澤潤一郎の監修本
1945年新潟県生まれ。
法政大学文学部を卒業。

科学哲学において、
量子力学と意識の問題を研究する。

たま出版社長 他各社役員・
UFO教育グループ主幹。
 小学生時代にUFOを目撃して以来、40年にわたる内外フィールドワークを伴った研究をもとに雑誌やTVで活躍中。1995年にはUFO党より参議院選挙に出馬。最近は、『たけしのTVタックル』などの番組に出演、超常現象肯定派の側に立って論陣を張る。UFO絶対肯定派。これまでに『ソ連東欧の超科学』『ノストラダムス大予言原典』『第三の選択』、「エドガー・ケイシー・シリーズ」「UFOシリーズ」などのベストセラーを手がけてきた。

 UFOと超常現象における研究の主要なテーマは、UFO目撃事件に始まり、宇宙開発や軍事上の情報操作の実態、宇宙考古学的な視点から見た人類の歴史、ミステリーサークル出現にいたる近代の文明に及ぼす宇宙人の動向、多様なコンタクト事件から判明する宇宙人の文明と、我々地球人の進化と能力の展望。