編集長日記
更新:2026年11月7日
時給180円
私が編集プロダクション、いわゆる「編プロ」に拾われたのは、今から47年前、25歳のときである。
早稲田を中退したあと、京都で1年ほど老舗旅館の下足番をしながら過ごしていたが、その後、生きる方途を見失い、田舎の実家で1年ほどぶらぶらしていたら、さすがに母親がしびれを切らし、「近所の手前もあるから、出ていきなさい」と言われた。
しかたなく、再び上京して知人の家に居候し、アルバイトをしながら職を探したが、早稲田中退がネックになっていくつ受けても受からない。当時の早稲田は学生運動が盛んで、過激派の革マルが根城にもしていたから、危険分子として怪しまれたのだろう。
いい加減就活がイヤになったころ、中野の鍋屋横丁(通称ナベヨコ)にある編プロに拾われて入社することになった。そこの社長が私と同じ大学出身で、同じように中退していたから拾ってくれたのである。
ところが、入ってみて驚いた。当時、編プロというのは‟長時間労働”という言葉がミドルネームのようなところで、建前は朝10時から夜7時までが就労時間になっているが、それはあって無きに等しく、むろん、残業代はつかない。
私も、入社初日からその洗礼を受けた。就労時間はとうに過ぎて、夜の9時になり、10時になっても、編集長は「帰っていいよ」とは言わない。さすがに11時半を過ぎたとき、「電車がなくなりますから、そろそろ帰っていいですか?」と聞くと、原稿から目を離した編集長が、そのとき初めて私の存在を知ったかのような顔で、「ああ、そうだった。帰っていいですよ」と答えた。社員は60人ほどいて、日本では有数の大規模編集プロダクションだったが、最終電車の時間になってもほとんどの社員が居残って原稿を書いていた。
そうして、入社2日目からは、私もその一人となったのである。
月曜日の朝、10時に出社すると、帰途に就くのは土曜日の夕刻である。1週間、まるまる帰らない。どこで睡眠をとるかというと、上階に仮眠室というのがあって、そこで雑魚寝をする。昼間は取材や打ち合わせであっという間に過ぎるから、夜、夕食と銭湯を済ませて、9時が近づくとその仮眠室へ行って午前2時に目覚ましをセットし、ひたすら寝る。目覚めると、翌朝の締切りに間に合わせるため、今度はひたすら原稿を書き続けるのである。朝まで煌々と灯りのついている会社は当時珍しかったから、鍋屋横丁の商店街からは「ナベヨコの不夜城」という、あまりありがたくない呼び名をつけられていた。
当時は、パソコンどころか、まだファックスも導入されていない時代だったから、“ペラ”と呼ばれる200字詰め原稿用紙に2Bの鉛筆でコツコツと文字を埋め、終わったら朝一番でクライアントの出版社や雑誌社へ原稿を届けに行く。
毎日がその繰り返しで、土曜日の夕方4時、ようやく解放されるのだが、そこで帰るかといえば、帰らない。終業時間が近づくと、いつも姿を現わす同僚がいて、私に声をかけてくるのである。
「中村さん、今日はどう? 3人までは揃ってるけど…」
「う~ん、疲れてますけど、やりますか」
そう言って、そさくさと机を片付け、斜め向かいにある雀荘に向かう。
「今日こそは終電で帰りましょう」
そう言って牌を並べ始めるのだが、終電前に終わったためしはない。結局、始発で帰る羽目になるのだが、若さというのは大したもので、日曜日の昼と夜にぐっすり眠れば、月曜日の朝にはしゃきんとして出社できる心身に戻っていた。
あるとき、深夜に隣の席で同僚がしきりに電卓を叩いているので、何をやっているのかしらん、と思っていたら、つと立ち上がり、
「みなさん、発表します!」
と言った。すわ、いきなりの婚約発表か、と思ったら、続けて言うには、「いま、私の給料を時給に換算してみました。180円になりました」。
社員のほとんどが20代で、若者特有のおふざけで笑いを取ろうとしたのだろうが、彼の意に反して、だれも笑わなかった。すでに全員、そのことを知っていたからである。
昔から、若いときの苦労は買ってでもせよ、といわれるが、これは、鉄は熱いうちに鍛えないとモノにならないからである。
たとえば、板前の修業では、当時、高校を卒業してその世界に入った若者は、まず、花板(板長)と生活を共にする。花板が風呂へ入れば背中を流し、着替えの用意までする。たしかに、風呂で花板の背中を流してもダシ巻玉子のつくり方は上達しないが、背中を流しているときに花板の言ったさりげない一言が、後年、役に立つことがある。そういった言葉は、感性の鋭い若いうちに聞けばいつまでも忘れないが、年をとってから聞いたのでは、すぐに忘れてしまうものだ。
人生はじつに不公平にできていて、知力、体力、気力、感性と、何かを成し遂げるための条件が順番にピークを迎えてくれればよいのだが、これらすべては同時にピークがやって来る。だから、板前であれ大工であれ、その時にしっかり基本を身につけねばならない。
編集の仕事というのは、板前や大工と同じように、一種の職人仕事だから、やはり若いうちに徹底的に鍛えておく必要がある。
昨今は、労働環境について厳しい規制があるが、資金に余裕のある大企業ならいざ知らず、職人を一から育てる零細企業では、修業中の若者にいちいち残業代を払っていては経営が立ちゆかない。そして、日本の技術を縁の下で支えているのはそうした零細企業である。
この国では、はるかな昔から、若者を一人前の職人に育てるために徒弟制度をつくって徹底的に鍛え、技術を伝承してきた。たとえば、伊勢神宮などは「式年遷宮」と言って、1,300年も前から20年に一度、社殿を新しく建て替える。これは、神様が新しくて清潔なものを好むという理由もあるが、もう一つの大きな理由は、宮大工の技術を絶やさせぬためでもある。
そうした伝統が、戦後、日本を世界に誇る「技術立国」に仕立て上げた。
ミクロ的には、たしかに労働者を守る法律は大事だろうが、あまりに法律ばかりに囚われていると、マクロ的に見れば技術大国としての国力は落ちてゆくばかりとなる。
大根ひとつ切れない鈍(なまく)ら刀しかつくれない、そんな日本をだれも見たくないはずだ。
(たま出版編集長 中村利夫)