編集長日記

更新:2026年4月18日

椰子の実は遠き島より流れ寄る

 『遠野物語』で有名な柳田国男は、周知のように日本民俗学を確立した偉人でもあるが、彼は若いころから各地を行脚し、地方に残る民話や説話を拾って歩いた。

 彼の著作には『山の人生』をはじめ、スピリチュアリズムが色濃く出ている作品が多いが、それは彼が蒐集した民話や説話にスピリチュアルな内容のものが多かったからにほかならない。『竹取物語』にしても『鶴の恩返し』にしても、民話や説話には現実離れしたものが多いから、自然とスピリチュアリズムを内包することになる。

 柳田国男には文学者の友人が多かったが、その一人が島崎藤村で、柳田が藤村に語った椰子の実の逸話は有名である。

 かいつまんで紹介すると、柳田が学生だったころ、東海地方の海岸沿いを歩いていると、砂浜に流れ着いた椰子の実を見つけた。友人の島崎藤村を訪ねたさいにその話をすると、藤村はその話をもとに『椰子の実』という詩を書いた。のちに、その詩にメロディがつけられて唱歌になった。

 日本列島の太平洋側には黒潮が流れており、それははるか南から発しているから、その黒潮に乗ってまれに椰子の実が流れ着くのだが、柳田の非凡なところは、椰子の実が流れ着くのであれば、もしかして人間も流れ着いた可能性があると考えたところにある。

 その着想が、やがて代表作『海上の道』となって実を結ぶのだが、たしかに、はるかな昔、メラネシア、ポリネシアあたりから船出した人たちが、台湾を経て、伊勢湾あたりに上陸し、そこで繫栄して日本人の祖先の一部となった可能性は大いにある。

 その証拠らしいものが、伊勢湾に残っている。伊勢神宮である。

 自分たちのご先祖さまを祀(まつ)るときに、そのご先祖さまが上陸したと伝わる場所に社殿を建てるというのはごく自然なことだから、もともと伊勢神宮というのはそうした部族が建てたものだとも考えられる。

 ということは、この神社はもともと大和朝廷のものではなかったことになる。大和朝廷の先祖は、こちらもはるか遠い昔ではあるが、南方ではなく、大陸の北の方からやってきた民族だと考えられるからである。

 そもそも、奈良を本拠とする大和朝廷のご先祖さまを祀る社殿が、なぜ遠く離れた伊勢湾にあるのか。いかにも不自然な話である。

 おそらく、大和朝廷は、日本列島を平定していくに当たって、各地の部族と融和するためにさまざまな協定を結んだに違いない。東海地方にはすでに大きな部族がいたから、武力で制圧するのは簡単ではない。

 そこで、自分たちの大事なご先祖さまを、その部族のご先祖さまを祀っている社殿に同居させる、それによって両部族を融和させるという計りをめぐらせたとも考えられる。そう考えれば、伊勢神宮に内宮と外宮の二つの社殿があることも頷けるだろう。

 周知のように、歴史書というのは為政者によって書き換えられるのが常だから、あまり当てにはならないのだが、日本の古代史の場合、書き換えられるというより「神話の世界」にされてしまった。

 おまけに、古代の天皇陵を調べようにも、宮内庁が許さない。

 そのため、何が真実なのかさっぱりわからなくなったのだが、逆に言えば、さっぱりわからないゆえに私のような門外漢でも勝手に想像できる。そこが古代史の面白いところで、民間の古代史研究家や郷土史研究家が多いのも頷けるのである。

 さて、冒頭に述べた柳田国男の話に戻ると、彼は、日本人とは何か、ということを民衆の側から探究した人で、先述した『山の人生』という作品には、それを知る手掛かりとして多くの逸話や実際にあった出来事が記録されているが、そのなかに、日本人の精神を象徴するかのような不思議な事件が記されている。

               ※          ※

 三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら、一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。

                ※        ※

 柳田は、日本には古来より山人(やまびと)と里人(さとびと)が分かれ住んでいて、里人に比べ山人の生活は過酷なものであったと書いている。

 そんな過酷な生活のなかで、彼らは自分が生き残るために他の人を犠牲にするのではなく、自分を犠牲にすることによって他の人を生かす精神を育んだ。

 そうした山人の精神は日本人の中に脈々と受け継がれ、やがて「神風特攻隊」という悲劇を生むことになるが、私たちはそこに悲劇だけでなく、日本人が持つ精神の崇高性をも見るのである。

(たま出版編集長 中村利夫)

 

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