UFO艦隊出現と情報公開運動の高まり A
UP : 2006.01.23

当コラムをご覧下さっている皆さん、新年おめでとう御座います。
大晦日のTVタックルでの事もいろいろありますが、今回は昨年末最後のコラムにて予告したように、前回と同テーマで引き続き展開したいと思います。

さて、世界各地に飛来しているUFO編隊がすべて「同じもの」かどうかは不明ですが、この時期・タイミングに集中して起きているというのは注目すべき事です。

前回のコラムでご報告した、某政党の秘書の方が目撃した皇居上空に飛来したUFOの外観が、「半透明で、コンタクトレンズのようだ」という表現は、一見「物体」としては心もとない感じですが、意外にこの表現が宇宙人側の実態と本質を表していると思われます。いくつか例をあげてみましょう。

まず昨年、最近の編隊飛行の走りともいえる、メキシコのユカタン上空に出現した11機のUFO編隊のケースでは、コラム46で紹介した通信記録にあるように、その存在が確認されたのは赤外線カメラとレーダーによるものでした。つまり、肉眼では見えなかった、もしくは「透明だった」と言うことが出来ます。

また、コラム45で検証しているように、『サイエンス』誌に唯一掲載されたUFO遭遇事件にも、その傾向は現れています。
それは1984年、水産庁の調査船「開洋丸」の乗組員が、ミッドウェー近くで「巨大タンカー大UFO」と遭遇した、日本でも有数の事件なのですが、その際も確認はレーダー航跡によるものでした。また夜間であったためか、肉眼では実体の全体像は殆ど明確に認識されませんでした。

またこの目撃状況は、アンカレッジ上空で起こった日航ジャンボ貨物機遭遇事件でも非常に顕著で、ようやく肉眼で全体を確認出来たのは、地上の都市の明かりを背景に、巨大な黒いシルエットが浮かび上がった時だけでした。

UFOの持つテクノロジーが光をコントロールする事が出来ると考えれば、「半透明」という現象は、その技術の一端を示していると言えるでしょう。では、何故そのような事をする必要があるのでしょうか?

現実的には、昨今のSF映画のように、威圧するような巨大UFOが大都市の上空に、ギラギラ光を発しながら出現することで「大パニック」になるような状況は、宇宙人側にとっても地球人側にとっても、何ら有益な状況を生み出すことはありません。

つまり、前述のような有数の事件に見られる曖昧な出現方法こそが、 そのような悪状況を避けようとする宇宙人側の配慮の表れだと言うことになるわけです。

しかし実際、宇宙人側から地球社会への接近は、過去すでにいろいろな形で何度か試みられており、宇宙人側にとっても、試行錯誤の連続であったように思われます。それは、1952年のワシントン上空出現事件、1954年のヨーロッパ・ウエーブ(UFO集中発生)などを見なおしても解りますが、その中でも、宇宙人側が最も期待を寄せたと思われるのが、今回ご紹介する事件です。

コラム7172で詳述しましたが、1964年に世界の一部政府関係者に対し、宇宙人からのアピールがメキシコで行なわれていたわけですが、それがさらに世界政治を動かすまでには更なる大きな働きかけが必要になっていました。
現実の政治的な結論が引き出されるためには、さまざまな分野でのロビー活動が行なわれた上で物事が進行していきます。大国の政治的舞台や、国連などで取り上げられるに至るまでには、想像以上の努力が必要になったと思われます。

そういう意味で、これからご紹介する、アメリカ東部で起きたUFO接近遭遇事件では、前年のメキシコで行われた、宇宙人側代表と地球の各国政府関係者との会議に関連した「事後処理的」な任務が、1人の人物に与えられていたようです。

この目撃事件では、マデリン・ジョンソン(旧姓ロドファー)夫人が、当時短期滞在中だったジョージ・アダムスキーと共に、UFOを非常に近距離で目撃・さらにフィルムに収めています。
ここからは、私の友人である竹島正氏が、1982年にメリーランド州シルバースプリングにてジョンソン夫人を訪ねたときの取材記録の一部をご紹介します。 これを読むと、接近遭遇時のUFOの色合いや外観について、詳細な観察が行われていることがわかります。

この事件の詳細を語ったジョンソン夫人は、インタビュー取材の前置きとして、当時の状況について以下のように説明しています。

『宇宙では、地球上の全ての人々の将来に関わる、重大な様々なことが起こっています。
そうした政府の高官が耳を傾け注意を払うべき重大なメッセージを、私たちはその筋に届けました。宇宙人は、「政府側からの意見聴取があるはずだ」と伝えてくれていました。
それは当時の合衆国副大統領であったヒューバート・ハンフリーなどでした。
数日後、私が出した書簡に対する礼状が郵送されてきました・・・・・』


以下インタビュー


M:マデリン・ジョンソン夫人
T:竹島氏

M: 人数はわかりませんが、宇宙人たちが来たのは、(1965年2月)26日早朝で、私達にカメラを用意しておくように告げたそうです・・・・・・

夫からクリスマスプレゼントとしてもらった8ミリ撮影機を手にして、何しろ初めて使うものですから、説明書を読みながらフイルムを入れたりして、私達はここに座って、コーヒーを飲みながら待っていました。・・・・・ 私はそのとき足を骨折していて、ギブスをはめていたので、あまり歩き回ることができませんでした。

その日の朝は、今日のような薄曇の空でした。あの窓の向こうに、グレーブルー(灰青)の飛行物体が、前後に揺れながら移動しているのに気付きました。間違いありません、彼らの宇宙船でした。午後3時を少し過ぎたころです。北西の方向でした。もちろん、その音も聞こえました。
しかし、彼らがそれ程までに近付いてくるとは全く予想していませんでした。私はのんきに考えていました。もし、わかっていたら、もっといいカメラを借りるための努力をしたと思います。

この時、数人の宇宙人たちがドアの所にやって来ました。上空に宇宙船がいる時に、彼らが来たのです。彼らは家に入って来ましたが、どんなアメリカ人とも見分けがつかないほど私達に似ていました。

宇宙人達は、


「彼らはもうここに来ている。カメラを手に持ちなさい。こんな危ない事は、もう二度とできないだろう・・・・・」

と言ったのです。

それで私達はポーチの方に行って、ドアから外に出ました。私は自分のカメラ、(2日前に到着していた)アダムスキー氏は彼のカメラを持ってです。

私はギブスの足で歩いていましたし、撮影する際の焦点合わせや、いろいろなことが思うように出来ませんでした。
私が出来ないので、アダムスキー氏は「代わりにやってあげよう」と言い、私のカメラを取りました。べルハウエルの8ミリです。彼はカメラを回し始めました。それはズームレンズもついていますが、とても安価なものでした。

宇宙船は、灰色や黒、青色と、さまざまな色合いを見せていました。周囲には霧のようなモヤがかかっていました。それが次第に近づき、動きが遅くなるにつれ、色がはっきりしてきました。それはほとんど、あなたのマイクロホンのカバーに近い色()でした。


マデリン・ジョンソン(旧姓ロドファー)夫人撮影のフィルムの1コマ

(この事件で撮影されたUFO映像は、TVタックルの年末特番で毎回使われています。)

私達は宇宙船を、およそ直径27フィート(8.2メートル)と目測しました。また高さは、私の車の長さ(約5メートル)と同じくらいはあったと思います。それはとても心に残る姿でした。
窓もありましたし、下部には小さな着陸用の球がありました。後日、彼らが説明したところによれば、その時、着陸用の球を一つだけ安定させるために作動させていたということです。

宇宙船は裏庭の上空を上下しながら、10分間ほどそこに滞空していました。宇宙船は常に動いていましたが、一度だけ殆ど静止した時、青みがかった緑色に見えました。そして丸窓が見え、また船体がどのようにして安定するのかがわかりました。非常にバランスが取れていました。

小さなシューッという音や、小さなモーターのような音が聞こえましたが、大きくはありません。柔らかな音で、唸るようなものではありません。それに何かコイルの周辺が動いているように見えました。・・・・・ それに、宇宙船の周囲はとても柔らかな仕上がりになっていました。

宇宙船の製造技術はまったく完璧なものであることがわかります。美しいものでした。その色や動き方といい、本当にすばらしいものです。そのデザインや動きなど全てにおいて、彼らの意のままになっていました。
何人の宇宙人が乗っていたのかはわかりませんでしたが、複数の人が乗ってるようでした。普通の人間のように見えたと思います。背の高さなどはわかりません。彼らが丸窓を横切った一瞬、顔が見えただけですから。宇宙船内部を、「さあどうぞ」と見せられるようなことはありませんでした。

そして物体は上昇して行きましたが、また戻ってきました。
私達は玄関の方に戻っていきましたが、なんとドアには鍵がかかっていました。私達は中に入れません。
結局テラスの扉が開いているのを思い出して、私達はテラスの方へ移動し、そこから宇宙船を撮影しました。それは低空に下りてきて、屋根の上空にやってきました。そして、こういう動き(模型を手に動作を説明)をしながら、やがて、ゆっくり上昇を開始し飛び去りました。
すぐに目には見えなくなりました。宇宙船にはやがてモヤがかかってきました。しかし宇宙船それ自体は金属製のもので、とても堅固で、機械的なものです。一部の人が思わせようとしているような空に浮かぶ雲やその他のものではありません。

私達は撮影したフイルムにとても満足していましたが、実はここで問題が生じました。
私達はフイルムを現像しようとしていたのですが、まず第一にそれが通信販売でカタログ販売の、シカゴに本社があるシアーズ・ノーバック社のフイルムであったことです。コダック社製ではなかったのです。それは夫が試し撮り用に、安かったので買っておいた物でした。
私は様々なところに現像を依頼したのですが、シアーズ社だけがそのフィルムの現像が出来る事、またそこではどこか別の作業所に郵送して、現像を行っている事も知りました。

私はこれほど大切なフイルムを郵送することは出来ませんし、長く待つこともしたくありませんでした。 何故なら、アダムスキー氏が今回の滞在を1週間と考えていたからです。
氏はニューヨークやボストンへ行って講演をする必要がありましたので、フイルムが現像されて戻ってくるのに2週間待つことは出来なかったのです。

私たちは、ワシントンでの新聞の記者会見に、このフイルムを使いたいと思いました。そこで私は様々なところに電話し、フイルムについて尋ねましたが、何を撮影したかは言いませんでした、ただ「現像したい」とだけ言ったのです。

しかし実は、私の電話は盗聴されていたのです。

フイルムは1リール22フィートぐらいのものでした。翌日私たちは庭に出て、もう片面のフイルムを撮影し終えました。現像に出せるようにフイルムを使い切ったのです。

結局は、私たちはニューヨーク州のロチュスターのコダック社に電話しました。アダムスキー氏は講演をするため、ビル・シャーウッド氏(当時コダック社員)に会うことになっていたからです。
私達はビルに、「とても急いで現像したいフイルムがあるので、待っている間に現像してくれるところを知っているか」と尋ねました。彼は、「ロチェスターにはラボがあって、まあまあの所だ」と紹介してくれました。また現像所は、バージニア州のアーリントンにもあることを教えてもらいました。

翌日、ビルはその住所を調べ、私に知らせてくれました。その時は撮影してから1週間目になっていたと思います。私はフイルムをアーリントンに持って行き、24時間で現像してもらうことにしました。私は実際、そのフイルムが現像されるのに立ち会うほど重要には感じなかったので、一晩待ってから翌日に取りに行くことにしたのです。

結局、現象は記者会見には間に合いませんでしたので、私達は記者会見の後、そのフイルムを取りに行きました。あの新聞社への会見で見せることが出来ていたら、どんなに素晴らしかったことでしょう。(現像所探しで)無駄な時間を費やしていたため、記者会見後に現像フイルムを受け取ることになってしまいました。
私達は自宅のあるメリーランド州に、フイルムはバージニア州、それに記者会見はワシントンで行われたのです。私たちが如何に忙しかったかお解りになるでしょう。

その晩、私達はついにここで現像されたフイルムを映写しました。
すると何か全て奇妙に見えました。一部分は非常に不思議な映りでした。フィルムの宇宙船は、家のドアに掛かっている古い帽子のように灰色に変わっていました。私達は、あのような宇宙船を見たのではありません。

当時、私達はだれかがフイルムを持ち出し、それをひねくりまわし、ある部分を切り取り、何か別のものを入れたとは考えつきませんでした。 しかし実際にはそうだったのです。
何者かががフイルムを盗み、そのオリジナルフイルムを切り取り、何かをコピーしたのです。非常に進んだ装置で行われたことはもちろんです。

それは、ここで起きた宇宙船飛来の出来事を撮影したものとは、とても思えない映像でした。フイルムの一部は明らかに異るものです。何者かががフイルムに何かを行って、ダメにしてしまったのです。それにシーンが一部抜き取られてしまっていました。
私達の周りには、全く汚い人達がいるということです。

T:すると普通、私達が「ロドファー・フイルム」と呼んでいる物は、オリジナルではないのですね?

M:そうです。あれはコピーで、一部は抜き取られてしまっていました。特に宇宙船が小道の上空に静止し、構造をよく観察出来るようなシーンは抜き取られています。

アダムスキー氏はロチェスターに行き、いくつかのフイルムを持ち込み、そこで8ミリと16ミリのコピーを作成しました。そして、ここでも誰かがアダムスキー氏の宿泊するホテルの部屋に忍び込み、彼のブリーフケースからフイルムを盗み出しました。今となってはそれが何のフイルムだったかはわかりませんが。

アダムスキー氏がここを離れたのは3月になってからで、直接ロチェスターに行きました。それからブリンガムトンで講演をしたと思います。それからボストン、ノースボロ、さらにデトロイトに行き、それからまたノースボロに戻ったと思います。
そして宇宙人が、氏に「ワシントンで、また完結していない仕事ある」と告げてきたので、氏はここワシントンにやって来たのです。

そして アダムスキー氏は、ここに約1週間しかいないまま他界しました。
4月23日金曜日のことでした。 


[「UFO教室」第17号より(文責:韮澤)


宇宙の現状に地球各国がはっきりとした認識をもつためのロビー活動の一環として、この接近遭遇は「アレンジ」されたものでした。
しかし、そうした宇宙人からの提案に対し、状況を知りながら反対する動きも激しく、結果的に妨害を受けていたということが明らかになっています。 結局、アメリカ政府に対する宇宙的ロビー活動は途中で挫折することになったのでしょうが、今、その残滓をこうして取り上げている次第です。

上記のインタビューから、2人がUFO遭遇の際、どこか近くで情報機関の監視があったことが伺われます。電話は盗聴され、現像所に預けたフイルムには手が加えられ、重要なシーンは抜き取られました。そして残されたフイルムは、いかにもクレームが付けられそうな動きの映像だけとなってしまったのです。

さてここで改めて、現場にいた宇宙人が「こんな危険なことは、もう二度とできない・・・・」と言った意味について考えてみましょう。

円盤が明瞭に撮影されるためには、動力と防御用の磁場フィールドが取り除かれなければならないようです。フィールドのある状況では、船体が霧に覆われたり、歪んで見えてしまったりするのでしょう。或いは可視光線で捕らえられなくなるのかもしれません。また同時に、もしそのフィールドが無い場合、防護の無い状態で、武器の攻撃などからの被害を直接受けてしまう事にもなるのでしょう。

この事件では、宇宙人側が、上記のようなリスクがあるにも関わらず、危険を冒してでも明瞭な宇宙船の映像を撮らせることで、政府や関係者に対し働きかけをする必要があったことを物語っています。また、死期が迫ったアダムスキー自身の健康状態を見ても、それほどまでに遂行しなければならない状況だったということになります。
それらに加え、実際こうした状況が常に監視されていることを知っていたからこそ、宇宙人たちにとっては、危険極まりない「最後のミッション」だったということが伺われるのです。

しかし結局、この努力も失敗に終わってしまいました…
その後、今日に至るも、政治という局面で、宇宙社会への開放に向かう兆しは、長いこと殆ど失われたままとなっているのが現状です。

しかし、宇宙人は「再接近」の努力を諦めた訳ではないようです。
竹島氏がマデリン夫人への取材を終え、家を後にしようとした時に起きた体験が、それを物語っています。

ここで 竹島氏自身の言葉を聞いてみましょう。


「この時、私はある非常に深い思いにふけっていました。
あのマデリンの円盤フイルムが、ホコリにまみれ、あっちこっちズタズタに切れて、色も黄ばんでしまっていたということが、管理が悪いといってしまえば、それまでですが、私にしてみれば、何かすごく悲しい思いがしていたんです。マデリンはこだわりのない憎めない人ですが、私にしてみれば、ちょっとがっかりしたようなところもあったんです。かつての政府への働きかけというようなことも、現在では殆ど無く、私は考え込んでいたんです。

それは、マデリンの家からの帰り道で、彼女が運転してくれ、車の中には私と女房が乗っていました。

前方の空に、少し変わった形の雲が出ていまして、それを見ながらマデリンが「母船も時々あんな形の雲になるのよ」なんていっていましたら、そのうちピカッと光ったんです。
マデリンがまず気付いて、「あれ、あれよ!」というんです。

彼女は車を運転して、前方を見ていたんで分かったんでしょう。私は、そんな光はよく目の錯覚などで光ることがあるんで、たいした事はないだろうくらいに思っていたんです。ところが、よく見たら、また私にも見えたんです。

だいたい夕方の4時頃でしたか、空に銀色で、木の葉運動していて、時々裏返しになるかのように、黒い部分が見えたりするんです。ちょうど、おわんをさかさまにしたような形で、上の方は銀色で光があたってピカッと光り、下の方は陰になって黒い色になるという感じでした。

私はびっくりしていたんですが、マデリンは目撃に慣れているようで、落ち着いたものでした。けれども私は、こんな飛び方をしているUFOというものは初めて見ました。

風船などですと、一直線にスーッといくわけですが、すばやく行ったり来たりしているんです。このとき私は2回見ました。1回パッパッパッと出て飛んで、見失ってから、また出てきたんです。その前に、最初1回、マデリンだけが気付いていましたので、このとき合計3回出現したわけです。
その場所は山の中というほどの所ではなくて、電線などが見えたりしていましたし、あたりには家もぽつぽつ点在しているような所でした。

私はたいへん落ち込んでいた時で、そんな時に円盤が現れたものですから、たいへん励まされた気分になりました。」

[UFO教室 第13号より (文責:韮澤)]


竹島氏は、この時期に約2ヶ月間に渡り、宇宙人たちとの交流に関わった7人の人々を訪ね、旅を続けました。その詳細については、また機会があればご紹介することにしましょう。

60年代、政治の場においてUFO問題が取り上げられようとするために、宇宙人達と一部の地球人達は必死でロビー活動を促進しようとしました。そのかつての宇宙人達が、新たな高まりを見せている現在の「状況」に呼応し、UFO編隊の出現によって、再び行動を起こそうとしているのでしょうか。
これらの続きは、また次回以降で検証していきたいと思います。

韮 澤 潤 一 郎
にらさわじゅんいちろう

韮澤潤一郎の監修本
1945年新潟県生まれ。
法政大学文学部を卒業。

科学哲学において、
量子力学と意識の問題を研究する。

たま出版社長 他各社役員・
UFO教育グループ主幹。
 小学生時代にUFOを目撃して以来、40年にわたる内外フィールドワークを伴った研究をもとに雑誌やTVで活躍中。1995年にはUFO党より参議院選挙に出馬。最近は、『たけしのTVタックル』などの番組に出演、超常現象肯定派の側に立って論陣を張る。UFO絶対肯定派。これまでに『ソ連東欧の超科学』『ノストラダムス大予言原典』『第三の選択』、「エドガー・ケイシー・シリーズ」「UFOシリーズ」などのベストセラーを手がけてきた。

 UFOと超常現象における研究の主要なテーマは、UFO目撃事件に始まり、宇宙開発や軍事上の情報操作の実態、宇宙考古学的な視点から見た人類の歴史、ミステリーサークル出現にいたる近代の文明に及ぼす宇宙人の動向、多様なコンタクト事件から判明する宇宙人の文明と、我々地球人の進化と能力の展望。